縁起の解読文
奥州仙台名取郡笠島村に鎮座する弁財天社に、その昔から安置されている尊像は、立派な和尚様の作と伝えられているが、その人は誰なのか名前は伝えられておらず分からない。
この尊像はその後盗賊のために盗まれた。また、社は慶長七年(一六〇二年)に野火のために焼けてしまった。
従って縁起などは失くなってしまった。
村の古老が語るのを私が聞いたのであるが、大昔、この辺りは只不整形の沼地であった。その中に小さな一つの島があった。
その頃この部落に一軒の金持ちの農家(長者)があった。
この長者の住んでいた所が、智福院というお寺の隣、『ウチデ』という所なので、上地の人達は「撃出(ウチデ)の長者」と呼んでいた。
この長者の家に一人の召使いがいた。その召使いの名前を「お倉」と言った。
お倉は日頃か信心深く、また情け深く気立ての優しい娘であった。
智福院には池があり、お倉は毎日食器を洗う時には一粒の飯も粗末にすることなく、池に棲んでいる蟹に与えていたのである。
偶々、ある年の暮春(春の終わり頃)、長者の主人は奉公人達を連れて田の仕事に出かけた。
昼近くになり、お倉は昼食をもって家の南の農道を通り、沼を過ぎようとした。
ふと首を巡らし沼を見ると、小島には一人の美青年が立っていた。そして青年は声をあげてお倉を呼んでいる。
お倉が近付くと青年はお倉の手を握り、心を通わせている様子であった。
そして青年はお倉に向かって「私の妻になれ」と言った。
お倉は黙って顧みなかった。
そのうち午の刻限も過ぎ昼食も遅れてしまった。主人はお倉が来るのを待ち兼ねていた。
青年はお倉に対し「帰りは必ずこの道を戻るように、その笠を置いていけ」と言った。
致し方なくお倉は青年に笠をあずけて田圃に行った。
やがて昼食も終えたので、お倉は家に帰るのであるが、一本道なので致し方なくまた元来た道を戻るのである。
沼の所まで来て、小島をよく注意してみると、前に置いていった笠の中には大蛇がとぐろを巻いて眠っているようである。
大蛇にびっくりしたお倉は、大蛇に気づかれないように、ここを通り過ぎようとした。
物音に気付き眠りから覚めた大蛇は、また青年に姿を変えてお倉を追ってきた。お倉はここで初めて、この男は大蛇が化けたのであることを知った。
逃げての逃げても追ってくるので、お倉は途中で智福院というお寺に逃げ込んだ。そして住職に救いを求めた。
智福院には石の唐戸があったので、和尚さんはこの中にお倉を入れて、堅く蓋をしてお倉を護ってやった。
そのうちにお倉を追っかけてきた男も寺の中に入ってきた。
男は目を真っ赤にして大きな声を出して怒鳴っていたが、やがてその中に身を蛇に変えてお倉の入った唐戸(石櫃、蓋のついた大型の石の箱)をぐるぐる巻きにし、その尾をもって固く締め付けた。
蛇は大きく口を開き、口の中から炎を吐きだす勢いはとても恐ろしく、誰も蛇を追い払う者はいなかった。
この時どこから来たのか、大小の蟹が数えきれないくらいぞろぞろと集まってきて、またたく間に蛇を鋏み切ってしまった。
このことによって、大きな蟹は傷つき、小さな蟹は死んでしまった。
嗚呼虫や獣であっても、報恩の念には変わりない。
ここに至って当時の人達は、大いに感謝して、蛇や蟹の遺骸を彼の小島に埋めて、その上に堂舎を建てた。
そしてその中に弁財天女の尊像を安置して祭祀を行った。
以前から野火に焼けたとか、賊のために盗まれたとか言われている尊像はこれではないだろうか。
今建っている社は、享保二年(一七一七年)笠島村の信者である弥右衛門が建立したものである。
その中に安置されている天女の尊像や十五童子の像は、弥右衛門が京都の仏工に命じて作ったものである。
弥右衛門の家では、寛延の頃(一七四八年)より旗を立て、毎年三月十三日を祭りの日と定め、献供して祭祀を行っている。
弁財天の御利益は極めてあらたかで、どんな人でも真心を込めて祈れば成らざることなく、諸願皆成就するとされている。
この度、清信士弥右衛門が当山(大年寺)に来て、私(湛然和尚)に会い、新しい縁起を作ることを丁寧に依頼された。
私は快く弥右衛門の求めに応じ、その顛末を兼ねてこの縁起を書くことにした。
弥右衛門の意図するところは、弁財天の徳を広く世に知らせることである。
この度私がこの縁起を書いたことによって、弁財天の徳は千年の後まで伝わることであろう。